スチュアート カウフマン『自己組織化と進化の論理』(ちくま学芸文庫)

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生命はどのように誕生し、そして進化したか。それが本書のテーマである。序盤は生命誕生の所以を考察し、中盤に入ると進化の過程を解き明かす。そして終盤ではそれらによって明らかになった自己組織化の理論を用いて我々の日常生活や経済活動に関して論及する。本書の構成は凡そこのような具合である。


最初のテーマは「生命はどのようにして誕生したか?」ということである。生命を持たないただの有機物の集合体が、如何にして生物と為り得たか。哲学者ベルクソンが提唱した生命衝動という生気論によってか?偶然にもDNAが合成されたからか?本書ではその何れに対してもNoと答える。生気論はその場凌ぎの理屈に過ぎないし、DNAも単独で自己複製し得ない。DNAが自己複製するには酵素やその他複雑なシステムがあってこそなのだ。偶然にDNAが合成されても、それが直ちに生命の創造には繋がらないのである。そしてそれが起こる確率は『竜巻きが物置を襲って、そこにあるものを使ってボーイング747を組み立てるという偶然が起きるのと、同じ程度』と本書で言及している。


それでは生命体は途方もない奇跡によって誕生したのであろうか。ここで登場するのが自己組織化の理論である。つまり、ある化学物質のスープにおける分子の種類がある閾値を超えると、自己触媒的な物質代謝が登場するというものである。先ほどの意見が「生命の誕生は偶然」としていたのに対し、「生命の誕生は必然」と主張しているという意味で決定的に異なっている。そしてそれぞれが共進化していくことで生命は進化する。これを本書では「無償の秩序」と呼ぶ。


それでは進化の過程はどうなのであろうか。ダーウィンの進化論によれば、進化は偶然に起きた突然変異の中で最適なものが生き残るという自然淘汰説を採る。しかし、もしランダムに進化してその中の最適な変異体を模索するとなると、それは膨大な試行錯誤法になってしまい、無限ともいえる時間が要求される。その解決策として、本書で導入されるのがNKモデルだ。NKモデルとは「N個の遺伝子」と「K個の他の遺伝子の対立因子」から適応度を算出する方法で、"K=1"とは1個の遺伝子は他の1個の遺伝子の影響を受けるということであり、"K=N-1"とは自分以外の遺伝子の影響を全て受けるということを意味している。このモデルに基づき、遺伝子は互いに作用しあって突然変異を起こしながら、その地形に最適な進化形態を模索するのである。これをNK適応地形という。このNKモデルを正しく理解しないと、本書の中盤以降の理解が全く進まないことになる。しかし、だからといって詳述するとキリがないので結論から先に述べると、このNKモデルによって分かることは以下のようになる。

進化は、はじめはあちこちの方向へ分岐し、しかも分岐した先の変種がたがいにまったく異なるものであるが、適応度が高くなるにつれてしだいに似たような変種へ向けて、数少ない分岐しかしないという状態へ落ちていく。

このNKモデルが遺伝子間の相互作用、つまり単体種の進化について述べるのと同じように、生態系における生物間の相互作用に適用するモデルが存在する。それが進化的に安定な戦略(ESS)と呼ばれるモデルで、NKモデルに「種の間の相互作用C」と「別の種のと関係数(パートナーの数)S」を加えたものである。このモデルにおいて生態系の進化の過程をシミュレートすると、以下のようになる。

進化の過程において、生態系は自己調節して秩序とカオスの間の転移領域に移動し、生態系は適応度を最大にし絶滅の平均割合を最小にするのである。その過程で、大小さまざまな雪崩現象が起こる。雪崩は、ある場合には系全体にわずかなさざ波を起こすだけかもしれないし、またある場合には生態系全体を大きくゆるがすかもしれない。われわれはみんな、舞台の上である一時期だけいばって歩いたりくよくよしたりして、その後、音もなく消え去ってしまう、そんな役者なのである。けれどもみんなで協力し、しかも知らない間にその舞台を調節しているので、非常に長い目で見ると、結局誰もが一番幸せだったということになるのである。

この一連の研究が示すものはいったい何か。それはもはや明白である。このモデルを受容するということは、生命誕生や進化の過程でそれを主導する、言い換えれば司令塔的役割を担う存在などいないということを意味する。カオスの縁相転移を繰り返しつつ、あるべき地点に収束する。しかし、それでは諦観に陥りはしないか。本書を読みながら私は疑念を持ったが、その疑念に対してはちゃんと回答が用意されていた。

われわれの最善の努力が最後には先の見えない状態に変わってしまうのなら、どうして努力する必要があるのか。なぜなら世の中がそうなっているからであり、われわれはその世の中の一部だからである。生命とはそういうものであり、われわれは生命の一部なのである。われわれのような、生命の歴史の中でずっと後になって生まれた歴史の役者はおよそ四十億年もの間生物が拡大していった生命の長い歴史の相続人である。その過程に深くかかわることが、畏敬の念に値せず神聖なものではないというのなら、それ以外に神聖なものがあるだろうか。

複雑系の進化モデルの行きつく先は、どうもある種の悟りのようである。読者の全員が同じ悟りを開くとは思えない。しかし、我々人類はそうやってお互いがお互いを意識しながら苦悩し、煩悶しながらあるべき姿に収束していくのだろう。