劉建輝『魔都上海―日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫)

魔都上海 日本知識人の「近代」体験 (ちくま学芸文庫)

魔都上海 日本知識人の「近代」体験 (ちくま学芸文庫)

これは1年半ほど前に以前のブログで紹介した書籍の再掲となる。

『魔都 上海』と題された本書は、上海に租界が成立した1845年から太平洋戦争による魔都としての上海が死滅する1942年(日本による租界接収)の約100年間の軌跡描いている。また、ちくま学芸文庫から再販されるのに伴い、国共内戦から今年の上海万博開催までの約50年の軌跡が増補された。言わば、この本は上海150年史である。

そもそも、何故上海が「魔都」と呼ばれるのか。上海に「魔都」と命名したのは村松梢風という人物であり、1924年に自らの上海における体験記を『魔都』という書物として出版した。魔都を魔都たらしめていたのは、租界成立以来育まれてきた、半ば独立した自由な気風である。「魔都」命名者の村松梢風は上海について次のように語る。

只、私を牽き付けるものは、人間の自由な生活である。其処には伝統が無い代りに、一切の約束が取り除かれてゐる。人間は何をしようと勝手だ。気随気儘な感情だけが生き生きと露骨にうごめいてゐる。(村松梢風『魔都』)

明治維新以降、天皇を中心とする均一な国民国家建設に邁進する日本と異なり、上海には様々な文化の混交した「クレオール」的性格を有していた。均一化の進む日本から離脱、脱落した多くが魔都上海にロマンを求めて移住するようになる。日本が租界を接収した1942年時点で租界人口240万人に対し、日本人を含む外国人移住者は15万人に達していた。

しかし、一方で上海にはもう一つの顔があった。それは伝統的な「県城」として上海であり、欧米列強による中国への「圧迫」を象徴していた。古くは幕末の頃に上海を訪れた高杉晋作五代友厚らに日本のあるべき姿を考えさせるキッカケとなり、また明治以降開発の進む東京に対し、上海の「水郷」に嘗ての江戸時代の風景を郷愁する谷崎潤一郎らが存在した。

こうして近代日本に様々な影響を与えてきた上海だが、1937年8月の第二次上海事変、1941年12月の太平洋戦争開戦を経て徐々に租界は日本軍に接収されていくようになる。そして1942年に徹底した戸籍管理(実はそれまでの上海(租界)は厳密な戸籍管理が為されていなかった)や移動制限が着々と実施されると、上海を上海たらしめた「クレオール」的性格は消え去ってしまった。日本人がロマンの対象とした「魔都」としての上海はここに死んだのである。

以上、『魔都上海』の概要を大雑把に紹介した。本書は其れ以外にも情報発信センターとしての一面や、漢訳洋書の出版事情などが詳細に記されている。日本よりいち早く近代化を成し遂げた上海について知る好著だと思う。興味のある方はご一読願いたい。