M.J.アドラー、C.V.ドーレン『本を読む本』(講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

本書は読書の方法について伝える本である。勿論、方法というからには技術的な箇所がメインになるのだが、特徴的なのはそれ以上に読者としての心構えが説かれている点だ。表面的に技術論を語るだけなら、1940年代に出版された本書が現在まで読み継がれるということはあるまい。実際、私は過去に速読術に関する本を何冊か購入したこともあるが、その本は全て既に売り払うか廃棄処分して書棚には残っていない。

まず、著者は現在(執筆当時)の状況について次のように語る。

情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の正しい姿が見えなくなってしまっている。...(中略)...理由の一つは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくてもよいような仕掛けにできていることである。...(中略)...カセットをプレーヤーにセットする要領で、知的パッケージを自分の頭にポンと投げこめば、あとは必要に応じてボタンを押して再生すればよい。考える必要はなくなったのである。
(「1 読書技術と積極性」p.14〜15)

この傾向は今でも変わらない。むしろ、インターネットで検索して必要な回答がすぐ出てくる分、この傾向は更に進んでいるのではなかろうか。読書の目的は自ら情報を取得し、分析し、意見を述べることにある。また精神を成長させることである、とも述べている。勿論、読書には他にも情報取得のための読書、というのもあるが著者が重視しているのはそこではない。

読書には段階がある。その文章の意味を理解し、アウトラインを掴み、著者の意見を理解し、それに対して批評を加える。更にあるテーマに沿って複数の著書を読む場合は、それぞれの論点を整理して比較する。アウトラインを掴む程度で十分とされる本もあれば、入念に分析・批評を加えるに値する本もある。技術論的なところは割愛するが、以下、私がこの本を読んでなるほどその通り、と感じた箇所である。

知識を実用化するためには、知識を行為の規則に作り変えねばならない。「実態を知ること」から、「どうしたら目的に達することができるかを知ること」に移行しなくてはならない。つまり、事実を知ることと、方法を知ることの二つになる。
(「6 本を分類する」p.76)

ふつう、読者は、事実や知識について率直に意見を表明していることを前提に読む。著者個人に対する興味から読む場合はそれでもよいが、本の内容を本当に理解しようとするなら、著者の意見がわかっただけでは十分ではない。「はっきり根拠が示されていない限り、著者の命題は個人的な意見にすぎない」からである。読者は命題を知るだけではなく、「その命題をたてるにいたった理由」を理解しなくてはならない。
(「9 著者の伝えたいことは何か」p.127)

著者の関連知識が不足しているか、誤っているか、論理性に欠けるか、のどれかが立証できない限り、読者には反論する資格はない。「あなたの前提には何も誤りはない。推論にも誤りはない。だが、私としては結論に賛成できない」ということは許されない。それは、結論が「気に入らない」と言っているだけで、反論とは言えない。著者に説得されたのなら、そのことは率直に認めるべきである。
(「11 著者に賛成するか、反論するか」p.169)

著者は読書のことを「一対一の対話」と表現する。対話であるが故にそこには最低限のルールや配慮が存在する。また、何度でも対話するに値する相手もいれば、1回だけで事足りる場合も、そしてそもそも対話する必要すらない相手もある。そのような判断を下す基準は何か。著者は以下のように述べる。

すぐれた書物ほど、読者の努力に応えてくれる。むずかしいすぐれた本は読書術を進歩させてくれ、世界や読者自身について多くを教えてくれるからである。単に知識をふやすだけの、情報を伝える本とは違って、読者にとってむずかしいすぐれた本は、永遠の真実を深く認識できるようになるという意味で読者を賢くしてくれる。
(「15 読書と精神の成長」p.249)

理解が深まり成長すればするほど永遠の真実に近づく、という論述はヘーゲル的な歴史認識を思わせる。が、ここで重要なのはそういう話ではない。読者が多くの良書に触れることで見識を深め、世の中の出来事に対して本質を掴む(という表現が適当なのかはわからないが...)ことが可能になる。冒頭に述べたような、マスコミの提供する知的パッケージをそのまま鵜呑みにして他者の意見に流されることがなくなるだろう。私自身がその境地に達しているとは到底言えないけども、そうなるようには努力しているつもりだ。このblogも半分は読書記録という意味合いがあり、この本の掲げる主題を達成できれば良いな…と思う次第である。

当然、自ら判断せず多数派の意見に乗っかり続け、誰とも衝突しない無難な生き方を選択することも可能だ。その場合は、ここまで深く読書をすることは必要ないだろう。読書に対する姿勢、それはその人の生き方も表すのかも知れない。