『後漢書』徐登伝

徐登者,閩中人也。本女子,化為丈夫。善為巫術。又趙炳,字公阿,東陽人,能為越方。時遭兵亂,疾疫大起,二人遇於烏傷溪水之上,遂結言約,共以其術療病。各相謂曰:「今既同志,且可各試所能。」登乃禁溪水。水為不流,炳復次禁枯樹,樹即生荑,二人相視而笑,共行其道焉。

登年長,炳師事之。貴尚清儉,禮神唯以東流水為酌,削桑皮為脯。但行禁架,所療皆除。

後登物故,炳東入章安,百姓未之知也。炳乃故升茅屋,梧鼎而爨,主人見之驚懅,炳笑不應,既而爨孰,屋無損異。又嘗臨水求度,船人不和之,炳乃張蓋坐其中,長嘯呼風,亂流而濟。於是百姓神服,從者如歸。章安令惡其惑衆,収殺之。人為立祠 室於永康,至今蚊蚋不能入也。

 徐登なる者は閩中の人なり。本は女子たるに、化して丈夫と為る。善く巫術を為す。また趙炳、字は公阿、東陽の人、能く越方*1を為す。時に兵乱に遭い、疾疫大いに起こり、二人は烏傷渓水*2の上に遇い、遂に結して言約し、共に其の術を以て病を療す。各相謂いて曰く「今既に志を同じくし、且に能とする所を各試するを可とせんとす*3。」徐登は乃ち渓水を禁ず。水は流れざるを為し、趙炳は復た次に樹の枯れるを禁じ、樹は乃ち生荑す。二人相視て而して笑い、共にその道を行く*4
 徐登は年長じ、趙炳は之に師事す。清倹を貴尚*5し、神に礼して唯東に流るる水を以て酌を為し*6、桑の皮を削りて脯*7と為す。但し禁架*8を行い、療する所皆除す。
 後に徐登物故し、趙炳は東して章安に入るも、百姓未だ之を知らざるなり。趙炳乃ち故の茅屋に升り、梧の鼎に而して爨ぐ*9。主人之を見て驚懅するも、趙炳は笑いて応ぜず。既に而して爨孰し*10、屋は損異無し。又嘗て水に臨みて度を求め、船人は之を和せず、趙炳乃ち蓋に張り其の中に坐し、長く嘯きて風を呼び、流れ乱れて而して済る*11。是に於いて百姓神服し、従う者は帰するが如し。章安令*12は其の衆を惑わすを悪み、収めて之を殺す。人は祠を立てるを為し、永康*13に室すも、今は蚊蚋*14至り入ること能わず。


女性から男性にコンバートしたという異例な経歴の持ち主の徐登、及び禁呪を自在に操る道士の趙炳の列伝。互いに習得した能力を生かし、会稽郡烏傷県の付近で治療を施していたという。食事は水及び桑の皮というストイックさ。まぁそんなに出世欲が無かった(道士では出世できませんし...)からか、徐登が死んでからは沿岸部の会稽郡章安県に移住して質素な暮らしをしていたという。が、『抱朴子』に載るような能力の持ち主が注目されないわけは無く、奇跡を起こして住民を心服させるや、県令の嫉妬を買って殺されてしまいました…という話。何故か趙炳の祠は烏傷県と章安県の中間辺りに位置する永康の地にあったらしいが、蚊蚋が沢山いて中には入れないという。何という不気味な状態。誰か掃除してやれよ、とか思ったり。何なんでしょうね。

*1:注釈によると、越方とは「禁呪を善くす」との意味。趙炳の名前は『抱朴子』に於いて道士の一人として言及されている。

*2:『水經注』によると、「呉寧渓は呉寧県より出で、烏傷を経る。之を烏傷渓と謂う」とある。現在の浙江省義烏市。

*3:やりたい志向性は一緒だから、互いの持てる能力をそれぞれ試そうじゃないか!という話。

*4:徐登が水の流れを止めると、水の供給を絶たれた樹が枯れる…はずが、趙炳が樹を枯れないように禁呪を使ったので枯れずに済んだ。で、それを視て二人がわいわい楽しく笑いましたとさ。めでたしめでたし…じゃねーって。水の流れを止められたら付近の住民はどうするんだよ(笑)

*5:両方とも「尊い」の意味。同義語を重ねての強調だろう。

*6:水を酒だと見なしたわけですな。私には無理。

*7:干し肉。

*8:禁呪と同義

*9:かしぐ。飯を炊くこと。

*10:炊いいた飯が芯まで火が通った、という意味だろう。

*11:超迷惑。

*12:章安県令

*13:注釈に曰く、「趙炳の故の祠は今の婺州永康縣の東に在り、俗に趙侯祠と呼を為し、今は蚊蚋至りて祠所に入れず。江南猶も趙侯の禁法以て疾を療するを伝うを云う。」

*14:蚊蚋。蚊のことで、蚋は「ぶよ」。