『禮記』月令篇について

『禮記』月令篇は毎月の出来事や動きについて記した篇である。この篇の著者は周公の作であると伝えられる一方、鄭玄はこの『禮記』月令篇は周公の作では無く、『明堂陰陽記』を起源とするものであると判断する。また、『禮記正義』の孔穎達は以下のように月令篇について注釈し、以下の4つの理由を以て月令篇の記述が周代の習慣に適合していないとしている。

  • 呂不韋諸儒士を集め為に十二月紀を著し、合すること十余万言、名づけて『呂氏春秋』と為す。篇首皆月令有り、この文と同一、一証なり。
  • 周に太尉無く、秦官に太尉有り。而して此の月令『乃ち太尉に命ず』と云い、官名周法に合せず、二証なり。
  • 秦は十月建亥を以て歳首と為し、而して月令は『来歳を為すは朔日を授く』と云い、乃ち是九月を歳終と為し、十月を授朔と為す。此是時の周法に合せず、三証なり。
  • 周に六冕有るも、月令は服飾車旗並びに時色に依り、此是事は周法に合せず、四証なり。

朱彬『禮記訓纂』は『禮記』月令篇の成立に関してはこれ以上の指摘をしないのであるが、島邦男『五行思想と禮記月令の研究』(汲古書院)では周公の作であることを支持する立場として後漢の馬融、蔡邕、賈逵、魏の王肅を代表格として挙げてその立場を解説している。また島邦男氏は著書の中で、『管子』四時篇や『呂氏春秋』、漢初の『時則十二紀』等を比較しながらその成立順を以下に纏めている。

 四時篇―原始十二紀―漢初十二紀―明堂月令―現本呂氏十二紀
 要するに明堂月令は宣帝時に成り、大載禮記から明堂禮・皇覽逸禮などの筯補を採り入れ、更に天子諸侯卿大夫の制を筯して、天子の事例として相應しく字句を修整した最も勝れた月令である。後漢に至り、呂氏春秋はこれを十二紀に採り入れることによって、高誘注本の現本呂氏十二紀と成ったのである。
(島邦男『五行思想と禮記月令の研究』(汲古書院) p.224)

ここの四時篇は『管子』四時篇、原始十二紀は一番最初に成立した『呂氏春秋』、漢初十二紀は『時則十二紀』、明堂月令は『禮記』月令篇、現本呂氏十二紀は現在流通している『呂氏春秋』を指す。『禮記』月令篇は周の時代の習慣を述べたものではないが、こういった研究成果を読む限りに於いて、漢代の事例として読むのに大変都合が良いと云うことに成るのだろう。逆に、この『禮記』月令篇を以て先秦時代の習慣と判断すると、場合によっては判断を誤るとも。よく注意して接していきたいものである。