最近すっかりご無沙汰になっていることについて

  1. Skypeグループ通話形式の漢文訓読会不定期になりつつあるが、一応は主催している。が、社会人がメインのために中々人が集まらない。皆で同じ箇所を読み合う、というのは不勉強さを思い知らされて冷や汗ものである一方、各自が自宅にある辞書やら史料やらを持ち合ってわいわい騒ぐ楽しい場でもある。できれば今後も継続したいが、果たして需要はあるのだろうか。
  1. 主にTwitter又はSkype仲間と東京横浜近郊に集まって三国志に関して話し合う中級者の集いなるものを主催している。主催していると言っても、適当に呼びかけて飲んで騒ぐだけなのであるが。これも随分とご無沙汰である。もし人が集まるようなら、またやってみたいものである。
  1. 昔ながらのホームページをまた作ろうかな、と性懲りも無く考えている。ただ、既に三国志関係はこれまで数多くのサイトによってやり尽くされた感があり、今更私がやっても継続性に難があるのと、屋上屋を架すことにしかならない懸念がある。また新しい技術(新規格のHTML5)を試すための実験場に終わるのかどうか。


漠然と、今考えていることを此処に記してみた。これらは今後実際にやるかも知れないし、やらないかも知れない。又はこっそりやっているかも知れない。三国志好きは多いようでそうでもないし、別に本格に気合い入れて…ではなくて、もう少し肩の力を抜いて気楽にやりたいから適当な感じになっている。コーディネーターとかプロデューサーになるつもりは更々無いのである。

『後漢書』龐公伝

龐公者,南郡襄陽人也。居峴山之南,未嘗入城府。夫妻相敬如賓。荊州刺史劉表數延請,不能屈,乃就候之。謂曰:「夫保全一身,孰若保全天下乎?」龐公笑曰:「鴻鵠巣於高林之上,暮而得所栖;黿鼉穴於深淵之下,夕而得所宿。夫趣舍行止,亦人之巣穴也。且各得其栖宿而已,天下非所保也。」因釋耕於壟上,而妻子耘於前。表指而問曰:「先生苦居畎畝而不肯官祿,後世何以遺子孫乎?」龐公曰:「世人皆遺之以危,今獨遺之以安,雖所遺不同,未為無所遺也。」表歎息而去。後遂攜其妻子登鹿門山,因采藥不反。

後漢書』逸民列伝に記載されている龐徳公の伝記。水鏡先生こと司馬徽徐庶、龐統、諸葛亮等が絡むという意味では物語上の重要人物。ただ歴史的に見て重要かどうかと言うと、当時の世相を表現するエピソードの1つでしか無い。以下、書き下し文。

 龐公なる者は南郡襄陽の人なり。峴山の南に居り、未だ嘗て城府に入らず。夫妻相敬せられること賓の如し。荊州刺史劉表は数*1延かんとして請う*2も、屈せしむること能わず*3、乃ち之の候に就く*4。謂いて曰く
 「夫れ一身を保全するは、孰れか天下を保全すべきか?」
龐公笑いて曰く
 「鴻鵠は高林の上に巣くい、暮而して栖する所を得る。黿鼉*5は深淵の下に穴し、夕而して宿る所を得る。夫れ趣舍*6し行きて止む、亦た人の巣穴なり。且つ*7各其の栖宿を得るのみ。天下の保つ所に非ず。」
釈に因りて壟上に耕し、而して妻子は前に耘す。劉表指し而して問うて曰く
 「先生は畎畝*8に苦居し而して官禄を肯じえず、後世何を以て子孫に遺すか?」
龐公曰く
 「世人皆之を遺すを以て危とし、今独り之を遺すを以て安とす。遺す所同じからざると雖も、未だ遺す所無きを為さざるなり。」
劉表嘆息し而して去る*9。後に遂に其の妻子を携え鹿門山*10に登り、因りて薬を采して反せず。

とりあえずこの伝記を見る限りでは世俗と関わりを絶って動いているように見えるが、実際は司馬徽が龐公に兄事しながら徐庶諸葛亮などの門下を育成し、龐公の息子は諸葛亮の姉を娶って魏に仕え、龐公自ら一推しの族子龐統を世に送るため司馬徽に評価させる等々。単に面倒毎が嫌で隠居していただけで、世間との関わりを完全に絶とうとはしていないのではないだろうか。

又はただ単に「劉表嫌われすぎワロスw」という話だけなのかも知れない。

*1:しばしば

*2:自陣営に引き入れようと要請しようとしたが、位の意味かな?

*3:登用失敗。

*4:機会を見つけて会おうとしたのか。なんとも執念深い劉表である。

*5:げんだ、と読む。大型のカメとワニの類らしい。

*6:進むことと止まること、又は取ることと捨てることという意味。『荘子』外篇・秋水第十七の「辞受趣舍」の単語が出典か。

*7:どういう用法だろう?わからない。

*8:げんぼう。田舎とか民間の意味。

*9:諦めたようだ。

*10:旧名を蘇嶺山。『襄陽記』によると、建武年間中に二つの石鹿を刻した襄陽侯習郁の神祠が建てられ、それが神道口を挟んだ格好になっているので俗に鹿門廟と称されるようになり、最終的にはその呼び名がそのまま山の名前になったという。

劉知幾[著]、浦起龍[通釈]『史通通釈』(上海古籍出版社)


購入を志した直接の動機は宮崎市定中国文明論集』(岩波文庫)の中で言及されていて強く興味を持ったことであるが、それ以前から劉知幾『史通』の名前は存じていて気になる書物ではあった。

『史通』は他の正史や『資治通鑑』『春秋』のような書物とは異なり、歴史書の成立や記述内容の真偽を論じる、謂わば史学の研究書みたいなものである。よって記述は「此処には〜の記述があるがそれは違う」とかそういう感じで溢れている。

『史通』は大きく分けて史書そのものについて論じた「内篇」とその具体的な記述内容を論じた「外篇」に分かれている。例えば「外篇」の疑古第三では三皇五帝の話を取り上げ、意訳すると「堯が息子の不肖を知って舜に禅譲した?或る書には『舜は堯を平陽に放った』という記述があるし、『囚堯城』という城がある。禅譲なんて疑わしいよね。」「舜って蒼梧の野で死んでいるんだけど、此処って漢代で言う零陵や桂陽の地域だよね。そんな僻地で死ななければならないその意味は?項羽が楚の義帝を長沙郴県に徒したりその他の君主を廃した時の事例を見たら明らかだよね。」みたいな感じである。正直、読んでいて楽しい。

分厚いが、一方で字は大きく行間もあるので読み易い。個人的には歴史に関する面白い読み物として見なして差し支えないと考えている。時間がある時に拾い読みしておきたい。

岩波文庫の中国古典の価値について


書き下し文を上手く書きたいなぁ、とは常に念願しているのだが独習だと中々上手くいかない。誰かと切磋琢磨しながらが一番理想だろうが、現実は上手くいかないものである。

やはりこういうときは、偉い先生の作った書き下し文を参照するのが良いのかもしれない。例えば、高校生から大学生の頃にかけ、岩波書店の中国古典関係を色々と購入している。写真で遷っている者だけでも、右から『韓非子』『易経』『荀子』『荘子』『孟子』『論語』、そして最近購入した『支那通史』もある。

岩波書店のこれら文庫の良い所は、原文を参照しながら書き下し文、語注が載っている所だ。昔購入した時はあまり有難味を感じなかったが、今になって振り返ると非常に労力をかけた、ありがたい構成だ。分かり易いとか読み易いということが持て囃されるが(特に角川ソフィア文庫はその傾向があるだろうと思う)、一方でこういう正統派の構成も残っていて欲しい。私のような独習者にとっては、特に重要だと思うから。

今日はそんなふとした感想を述べてお終い。

『後漢書』徐登伝

徐登者,閩中人也。本女子,化為丈夫。善為巫術。又趙炳,字公阿,東陽人,能為越方。時遭兵亂,疾疫大起,二人遇於烏傷溪水之上,遂結言約,共以其術療病。各相謂曰:「今既同志,且可各試所能。」登乃禁溪水。水為不流,炳復次禁枯樹,樹即生荑,二人相視而笑,共行其道焉。

登年長,炳師事之。貴尚清儉,禮神唯以東流水為酌,削桑皮為脯。但行禁架,所療皆除。

後登物故,炳東入章安,百姓未之知也。炳乃故升茅屋,梧鼎而爨,主人見之驚懅,炳笑不應,既而爨孰,屋無損異。又嘗臨水求度,船人不和之,炳乃張蓋坐其中,長嘯呼風,亂流而濟。於是百姓神服,從者如歸。章安令惡其惑衆,収殺之。人為立祠 室於永康,至今蚊蚋不能入也。

 徐登なる者は閩中の人なり。本は女子たるに、化して丈夫と為る。善く巫術を為す。また趙炳、字は公阿、東陽の人、能く越方*1を為す。時に兵乱に遭い、疾疫大いに起こり、二人は烏傷渓水*2の上に遇い、遂に結して言約し、共に其の術を以て病を療す。各相謂いて曰く「今既に志を同じくし、且に能とする所を各試するを可とせんとす*3。」徐登は乃ち渓水を禁ず。水は流れざるを為し、趙炳は復た次に樹の枯れるを禁じ、樹は乃ち生荑す。二人相視て而して笑い、共にその道を行く*4
 徐登は年長じ、趙炳は之に師事す。清倹を貴尚*5し、神に礼して唯東に流るる水を以て酌を為し*6、桑の皮を削りて脯*7と為す。但し禁架*8を行い、療する所皆除す。
 後に徐登物故し、趙炳は東して章安に入るも、百姓未だ之を知らざるなり。趙炳乃ち故の茅屋に升り、梧の鼎に而して爨ぐ*9。主人之を見て驚懅するも、趙炳は笑いて応ぜず。既に而して爨孰し*10、屋は損異無し。又嘗て水に臨みて度を求め、船人は之を和せず、趙炳乃ち蓋に張り其の中に坐し、長く嘯きて風を呼び、流れ乱れて而して済る*11。是に於いて百姓神服し、従う者は帰するが如し。章安令*12は其の衆を惑わすを悪み、収めて之を殺す。人は祠を立てるを為し、永康*13に室すも、今は蚊蚋*14至り入ること能わず。


女性から男性にコンバートしたという異例な経歴の持ち主の徐登、及び禁呪を自在に操る道士の趙炳の列伝。互いに習得した能力を生かし、会稽郡烏傷県の付近で治療を施していたという。食事は水及び桑の皮というストイックさ。まぁそんなに出世欲が無かった(道士では出世できませんし...)からか、徐登が死んでからは沿岸部の会稽郡章安県に移住して質素な暮らしをしていたという。が、『抱朴子』に載るような能力の持ち主が注目されないわけは無く、奇跡を起こして住民を心服させるや、県令の嫉妬を買って殺されてしまいました…という話。何故か趙炳の祠は烏傷県と章安県の中間辺りに位置する永康の地にあったらしいが、蚊蚋が沢山いて中には入れないという。何という不気味な状態。誰か掃除してやれよ、とか思ったり。何なんでしょうね。

*1:注釈によると、越方とは「禁呪を善くす」との意味。趙炳の名前は『抱朴子』に於いて道士の一人として言及されている。

*2:『水經注』によると、「呉寧渓は呉寧県より出で、烏傷を経る。之を烏傷渓と謂う」とある。現在の浙江省義烏市。

*3:やりたい志向性は一緒だから、互いの持てる能力をそれぞれ試そうじゃないか!という話。

*4:徐登が水の流れを止めると、水の供給を絶たれた樹が枯れる…はずが、趙炳が樹を枯れないように禁呪を使ったので枯れずに済んだ。で、それを視て二人がわいわい楽しく笑いましたとさ。めでたしめでたし…じゃねーって。水の流れを止められたら付近の住民はどうするんだよ(笑)

*5:両方とも「尊い」の意味。同義語を重ねての強調だろう。

*6:水を酒だと見なしたわけですな。私には無理。

*7:干し肉。

*8:禁呪と同義

*9:かしぐ。飯を炊くこと。

*10:炊いいた飯が芯まで火が通った、という意味だろう。

*11:超迷惑。

*12:章安県令

*13:注釈に曰く、「趙炳の故の祠は今の婺州永康縣の東に在り、俗に趙侯祠と呼を為し、今は蚊蚋至りて祠所に入れず。江南猶も趙侯の禁法以て疾を療するを伝うを云う。」

*14:蚊蚋。蚊のことで、蚋は「ぶよ」。

世界史に関する本を購入してみた

或る書店の触れ込みに曰く、東大早稲田慶応でよく売れている世界史の本。今日購入したばかりなので、まだ読了していない。

本書はウィリアム・H・マクニールによって執筆されたが、元々の執筆動機はオックスフォード大学の授業の使用に耐えられる程度の適度な分量に収まること。それまでは全十巻にも及ぶ大著を教科書に使用することになっていたらしい。なんともため息が出る話である。

さてそのようなわけで、冒頭を読んでみた限りではとても読み易い印象。あっという間に読み進めることができそうだ。よく考えると世界史の本と言えばあまり持っていない。恐らく持っている本の中で、体系的に世界史を述べているのは岩波新書(青)のH.G.ウェルズ『世界史概観』くらいだとおもう。

漠然とした世界史の流れはあまり把握していないのだけれども、一般教養程度には知っておく必要はあるかも知れない。別に中国古代史偏重の揺り戻し、という意図は無いのだけれども。

桓寬『鹽鐵論』本議第一 (6)

大夫曰:「往者,郡國諸侯各以其方物貢輸,往來煩雜,物多苦惡,或不償其費。故郡國置輸官以相給運,而便遠方之貢,故曰均輸。開委府於京師,以籠貨物。賤即買,貴則賣。是以縣官不失實,商賈無所貿利,故曰平準。平準則民不失職,均輸則民齊勞逸。故平準、均輸,所以平萬物而便百姓,非開利孔而為民罪梯者也。」

大夫曰く「往者*1、郡国諸侯は各其の放物*2を貢輸するを以てするに往来煩雑、物多くて苦悪*3し、或いは其の費を償わず。故に郡国に輸官を置き以て相運ぶを給け而して遠方の貢を便とし、故に曰く均輸という。京師に府を開き委ね*4、以て貨物を籠めん。賤せば則ち買い、貴たれば則ち売る。是れ以て縣官*5は実を失せず、商賈は利を貿むる*6所無く、故に平準という。平準たれば則ち民は失職せず、均輸たれば則ち民は斉しく労逸す。故に平準・均輸、万物を平らかにし而して百姓を便するを以てする所、利の孔を開き而して民の罪梯を為す者に非ざるなり。」

文学の士が商工業重視の政策が庶民の生活を困窮させる、と指弾したことに対する桑弘羊の反論。均輸制は遠方からの運搬の手間を官が担うことによってその労を軽減させ、平準制は首都に物品を集約して売買することを指すようである。均輸制は現代で例えると国営の運輸事業みたいなものだろうか。平準制は物品を一箇所に集約することで地方による価格差を無くすことが目的か。本当は『漢書』を読んで理解すべきだろうが(恐らく上奏文とかに詳細が載ってるのだろう)、ここだけで判断する限りはそんな感じ。とにかく、桑弘羊は今回の反論で「庶民の生活にとっても利益があり、そのような批判は当たらない」と。

*1:過ぎ去った昔の事柄。

*2:地方の産物。

*3:苦と悪は同義で、困難であることを強調している。

*4:委=積む、という意味。

*5:漢代に於いて、「縣官」は天子を指す。『史記索隱』や『資治通鑑』の胡三省注で指摘。

*6:求めると同義。