桓𥶡『鹽鐵論』本議第一 (5)

文學曰:「國有沃野之饒而民不足於食者,工商盛而本業荒也;有山海之貨而民不足於財者,不務民用而淫巧衆也。故川源不能實漏卮,山海不能贍溪壑。是以盤庚萃居,舜藏黃金,高帝禁商賈不得仕宦,所以遏貪鄙之俗,而醇至誠之風也。排困市井,防塞利門,而民猶為非也,況上之為利乎?傳曰:『諸侯好利則大夫鄙,大夫鄙則士貪,士貪則庶人盜。』是開利孔為民罪梯也。」

文学曰く「国沃野の饒有り而して民食する者に足らざるは、工商盛ん而して本業荒れるなり。山海の貨有り而して民財に足らざるは、民用を務めず而して淫巧衆きなり。故に川源は漏卮*1を実すること能わず、山海は溪壑*2を贍すこと能わず。是れ盤庚は萃居し、舜は黄金を蔵し、高帝は商賈を禁じて仕宦するを得ずを以て、貪鄙の俗を遏め而して至誠の風を醇くする所以なり。市井を排困し、利門を防塞し、而して民猶非を為すや、況んや上は之利と為すか?伝に曰く『諸侯が利を好めば則ち大夫は鄙しく、大夫鄙しければ則ち士貧しく、士貧しければ則ち庶人盗たり。』是れ利孔開きて民の罪梯を為すなり。」

文学の士は桑弘羊が「商工業の発展こそが国を栄えさせるのだ」との主張に対し、逆に国土が肥沃であるのに民衆が食べるものに困っているのは、商工業が盛んで本業である農業が疎かになっているからだと主張する。そして盤庚、舜、劉邦の事績、また言い伝え*3を引用して組織のトップが利を好めば下々は苦しくなって盗賊とならざるを得ないとする。よって文学の士は商工業の発展は最終的に民衆の困窮をもたらす、と繰り返し主張するのである。

*1:水の漏れる杯

*2:大きく深い谷

*3:『説苑』『春秋繁露』を出典とされ、今文学派の主張でもある。

趙炳清『蜀鑑校注』(国家図書館出版社)


宋の郭允蹈『蜀鑑』に対して校注した書籍。先秦時代から北宋時代に至るまで1200年間にわたる蜀の攻防が記されている。その目的は南宋存続のために蜀の地が重要であることを示すため。繁体字なので簡体字に慣れていない私にとっても読み易く、そして注釈が豊富なので本文中の単語も理解しやすい。記述は非常に簡潔で、行軍や攻略に必要な箇所を除いて、殆ど会話文は無い。また地名は沢山出てくるが地図の類は一切出てこないため、『水経注図』や『中国歴史地図集』を手元に置いておかないと厳しいように思う。

難しい経学用語は殆ど出ず、誰が何時何処を攻めてどうなったという記述が続くため、さくさく読める。本文中の記事をもう少し詳しく知りたいと願うなら、注釈を手がかりに史料を調べると良いかと考えられる。

尚、私の持っているのは初版本で、繁体字だけで構成されているはずなのに時々簡体字が見受けられたり、巻末附録のページが乱調気味と大変微笑ましいが、読了する上で大きな支障も無いし、購入したのが大分昔で今更交換もできないと思うのでこのまま使用し続ける所存である。

『禮記』月令篇について

『禮記』月令篇は毎月の出来事や動きについて記した篇である。この篇の著者は周公の作であると伝えられる一方、鄭玄はこの『禮記』月令篇は周公の作では無く、『明堂陰陽記』を起源とするものであると判断する。また、『禮記正義』の孔穎達は以下のように月令篇について注釈し、以下の4つの理由を以て月令篇の記述が周代の習慣に適合していないとしている。

  • 呂不韋諸儒士を集め為に十二月紀を著し、合すること十余万言、名づけて『呂氏春秋』と為す。篇首皆月令有り、この文と同一、一証なり。
  • 周に太尉無く、秦官に太尉有り。而して此の月令『乃ち太尉に命ず』と云い、官名周法に合せず、二証なり。
  • 秦は十月建亥を以て歳首と為し、而して月令は『来歳を為すは朔日を授く』と云い、乃ち是九月を歳終と為し、十月を授朔と為す。此是時の周法に合せず、三証なり。
  • 周に六冕有るも、月令は服飾車旗並びに時色に依り、此是事は周法に合せず、四証なり。

朱彬『禮記訓纂』は『禮記』月令篇の成立に関してはこれ以上の指摘をしないのであるが、島邦男『五行思想と禮記月令の研究』(汲古書院)では周公の作であることを支持する立場として後漢の馬融、蔡邕、賈逵、魏の王肅を代表格として挙げてその立場を解説している。また島邦男氏は著書の中で、『管子』四時篇や『呂氏春秋』、漢初の『時則十二紀』等を比較しながらその成立順を以下に纏めている。

 四時篇―原始十二紀―漢初十二紀―明堂月令―現本呂氏十二紀
 要するに明堂月令は宣帝時に成り、大載禮記から明堂禮・皇覽逸禮などの筯補を採り入れ、更に天子諸侯卿大夫の制を筯して、天子の事例として相應しく字句を修整した最も勝れた月令である。後漢に至り、呂氏春秋はこれを十二紀に採り入れることによって、高誘注本の現本呂氏十二紀と成ったのである。
(島邦男『五行思想と禮記月令の研究』(汲古書院) p.224)

ここの四時篇は『管子』四時篇、原始十二紀は一番最初に成立した『呂氏春秋』、漢初十二紀は『時則十二紀』、明堂月令は『禮記』月令篇、現本呂氏十二紀は現在流通している『呂氏春秋』を指す。『禮記』月令篇は周の時代の習慣を述べたものではないが、こういった研究成果を読む限りに於いて、漢代の事例として読むのに大変都合が良いと云うことに成るのだろう。逆に、この『禮記』月令篇を以て先秦時代の習慣と判断すると、場合によっては判断を誤るとも。よく注意して接していきたいものである。

『後漢書』曹騰伝

曹騰字季興,沛國譙人也。安帝時,除黃門從官。順帝在東宮,鄧太后以騰年少謹厚,使侍皇太子書,特見親愛。及帝即位,騰為小黃門,遷中常侍桓帝得立,騰與長樂太僕州輔等七人,以定策功,皆封亭侯,騰為費亭侯,遷大長秋,加位特進。

騰用事省闥三十餘年,奉事四帝,未嘗有過。其所進達,皆海内名人,陳留虞放、邊韶、南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等。時蜀郡太守因計吏賂遺於騰,益州刺史种暠於斜谷關搜得其書,上奏太守,并以劾騰,請下廷尉案罪。帝曰:「書自外來,非騰之過。」遂寢暠奏。騰不為纖介,常稱暠為能吏,時人嗟美之。

騰卒,養子嵩嗣。种暠後為司徒,告賓客曰:「今身為公,乃曹常侍力焉。」

嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬,故位至太尉。及子操起兵,不肯相隨,乃與少子疾避亂琅邪,為徐州刺史陶謙所殺。

 曹騰字は季興、沛国譙の人なり。安帝時、黄門従官に除せられる。順帝東宮に在りて、鄧太后曹騰の年少にして謹厚なるを以て、皇太子の書に侍らし、特に親愛せらる。帝即位するに及び、曹騰小黄門と為り、中常侍に遷る。桓帝立つを得るや、曹騰と長楽太僕の州輔等七人、策を定む功を以て皆亭侯に封ぜら、曹騰は費亭侯と為り、大長秋に遷り、特進の位を加えらる。
 曹騰は省闥に用事すること三十余年、四帝に奉じ事え、未だ嘗て過有らず。其の進め達する所、皆海内の名人たり。陳留の虞放、邊韶、南陽の延固、張溫、弘農の張奐、潁川の堂谿典等。時に蜀郡太守計吏が曹騰に賂遺せしむるに因り、益州刺史の种暠は斜谷関に於いてその書を捜し得、太守に上奏し、并せて以て曹騰を劾し、廷尉に下して罪を案ずるを請う。帝曰く「書は外より来たれば、曹騰の過に非ず。」遂に种暠の奏を寝かす。曹騰は繊介為さず、常に种暠能吏を為すと称し、特に人は之を嗟美す*1
 曹騰卒し、養子の曹嵩嗣ぐ。种暠後に司徒と為りて賓客に告げて曰く「今身公と為るは、乃ち曹常侍の力なり。」
 曹嵩霊帝持に中官及び西園に銭一億万を貨賂し、故に位は太尉に至る。子の曹操起兵するに及び、相随うを肯じず、乃ち少子の曹疾*2と琅邪に乱を避け、徐州刺史陶謙に殺さるる所と為る。


と言うわけで、曹操の祖父こと曹騰。ま、有名すぎるので論評は避けます。王鳴盛『十七史商榷』や劉知幾『史通』等が、宦者列伝そのものや范曄が執筆の際に参考にしたであろう『東觀漢記』を批判しているのは面白いですね。劉知幾『史通』は先日注文していて、恐らく3月中旬頃までには自宅に到着すると思うので、当時の史料批判の姿勢を参考にしたいと思います。

*1:後漢書集解』では王鳴盛の意見として「曹騰は国を誤らせた悪人なのに良く書かれているのは『東觀記』の元文か、魏代の人物による潤色の影響ではなかろうか」とも述べている。そして『東觀記』に関しては孫程伝の集解で「当時の孫程や鄭衆などの有力宦官は東観にいた為、筆を曲げている」とする劉知幾の見解を掲載している。つまり、この宦者列伝そのものが『東觀記』のバイアスを受けて成立していて片手落ちだと述べている。私は『東觀記』の実情を調べていないので、この意見の是非は論評しないでおく。

*2:『官本考証』曰く、『魏志』では曹嵩の少子は曹徳との表記。

『後漢書』漢陰老父伝

所謂「名無しの権兵衛」が列伝に載っていたので、興味深く読んでみる。たぶん、読んで得られることはない(笑)

漢陰老父者,不知何許人也。桓帝延熹中,幸竟陵,過雲夢,臨沔水,百姓莫不觀者,有老父獨耕不輟。尚書南陽張溫異之,使問曰:「人皆來觀,老父獨不輟,何也?」老父笑而不對。溫下道百步,自與言。老父曰:「我野人耳,不達斯語。請問天下亂而立天子邪?理而立天子邪?立天子以父天下邪?役天下以奉天子邪?昔聖王宰世,茅茨采椽,而萬人以寧。今子之君,勞人自縱,逸遊無忌。吾為子羞之,子何忍欲人觀之乎!」溫大慙。問其姓名,不告而去。

 漢陰老父は何許の人か知らざるなり。桓帝延熹中、竟陵に幸し、雲夢を過ぎ、沔水に臨み、百姓観ざる者なくも、老父独り有りて耕すを輟めず*1尚書郎の南陽の張溫は之を異とし*2、使問うて曰く「人皆来たりて観るに、老父は独り輟めざるは何ぞや?」老父は笑い而して対せず*3。張溫は道を百歩下がり、自ら与に言す。老父曰く「我は野人のみ、斯く語に達せず。請うて天下乱れるを問い而して天子を立つるか?理め*4而して天子を立つるか?天子を立ちて以て天下の父たるか?天下に役して以て天子を奉ずるか?昔聖王宰し世、茅茨采椽*5、而して万人寧するを以てす。今の子の君、人を自ら縦に労り、逸し遊びても忌むこと無し。我は子の為に之を羞とし、子は何ぞ人之を観るを忍か!」張溫大いに慙ず。其の姓名を問うも告げず而して去る。

この次の列伝には「陳留老父」という同じく本貫不明、氏名詳細不明の老人の列伝が続く。共通点は桓帝の頃であって、この漢陰老父は延熹年間、陳留老父は党錮事件直後のエピソードだということである。この列伝そのものに信憑性があるかどうかはわからない。しかしこの列伝をわざわざ配したこと自体、内容を勘案しても、『後漢書』著者の范曄が党錮の禁を発令した宦官勢力に対して反発した表現の一部なのだろう。

*1:桓帝が巡幸してきたので皆が桓帝ご一行に注目したのに、独り桓帝を無視して農耕に励む老人がいました。

*2:皇帝が目の前を通過してもガン無視ですからね...

*3:張溫の使者「皆が皇帝陛下に注目しているのに、貴方は何で独り作業を止めないんですか?」 老人「(笑)」 ...というイメージだろうか。

*4:治める、と同義。

*5:茅茨は茅と茨、采椽はクヌギの垂木。韓非子の「堯舜は采椽を刮せず、茅茨は翦せず」が出典。

『後漢書』羊陟伝

羊陟字嗣祖,太山梁父人也。家世冠族。陟少清直有學行,舉孝廉,辟太尉李固府,舉高第,拜侍御史。會固被誅,陟以故吏禁錮歷年。復舉高第,再遷冀州刺史。奏案貪濁,所在肅然。又再遷虎賁中郎將、城門校尉,三遷尚書令。時太尉張顥、司徒樊陵、大鴻臚郭防、太僕曹陵、大司農馮方並與宦豎相姻私,公行貨賂,並奏罷黜之,不納。以前太尉劉寵、司隸校尉許冰、幽州刺史楊熙、涼州刺史劉恭、益州刺史龐艾清亮在公,薦舉升進。帝嘉之,拜陟河南尹。計日受奉,常食乾飯茹菜,禁制豪右,京師憚之。會黨事起,免官禁錮,卒於家。

まずは例の如く書き下し。諸注意もかくの如し。

 羊陟字を嗣祖、太山郡梁父県の人なり。家世冠族たり*1。羊陟は少くして清直にして学業有り。孝廉に挙げられ、太尉李固の府に辟せられ、高第に挙げられ、侍御史を拝す。会*2李固誅せられ、羊陟は故吏を以て歴年禁錮とす。復た高第に挙げられ、再遷して冀州刺史たり。奏して貪濁を案じ、在る所は粛然たり。又再遷して虎賁中郎将、城門校尉、三遷して尚書令たり。時の太尉張顥、司徒樊陵*3、大鴻臚郭防、太僕曹陵、大司農馮方並びに宦豎と相姻私し*4、公に貨賂を行う。並びに奏して之を罷黜*5せんとするも、納めず。以前の太尉劉寵、司隷校尉許冰*6、幽州刺史楊熙、涼州刺史劉恭、益州刺史龐艾は清亮にして公に在り、薦挙して昇進せしむ。帝之を嘉とし、羊陟は河南尹を拝す。日を計りて奉を受け*7、常に乾飯と茹菜*8を食し、豪右の制するを禁じ、京師之を憚る。会*9党事起こりて官を免ぜられて禁錮*10、家に卒す。

というわけで、寝る前にお酒を飲みながらもう一つ訳してみた。これくらいの分量ならすぐできてお手軽である。

*1:代々豪族の家柄だった。県は違うが、同郡出身であることから、羊続の一族ではなかろうか。羊続も七世二千石の家柄である。

*2:たまたま

*3:錢大繒曰く「靈帝紀は樊陵を太尉と為して司徒に非ず」。ということだが、それだと張顥と被るじゃん...という話もあったりなかったり。時期的な問題だろうか。

*4:宦官勢力と一部士大夫の結託と読める。

*5:辞めさせて退ける、と言う意味。

*6:後漢書集解』には以下の記述がある。【王先謙曰く、官本は亦た永と作る。『考証』曰く、永は毛本で冰と作り、監本は水と作る。今は宋本に従う。王先謙案ずるに、毛本並びに冰と作らず、何本に拠るか知らず。】ここは中華書局、そして中央研究院の漢籍電子文献が共に許冰と表記しているので今回はそれに従ったが、王先謙の見解に拠れば「許冰」という表記は根拠が無いとし、実際に『後漢書集解』における本文表記は「許永」となっている。

*7:給料(俸禄)を誤魔化さなかったということか?

*8:乾いたご飯と茹で野菜だけ。

*9:たまたま

*10:所謂「党錮の禁」だが、恐らく第一次の方か。

『晋書』唐彬伝

唐彬字儒宗,魯國鄒人也。父臺,太山太守。彬有經國大度,而不拘行檢。少便弓馬, 好游獵,身長八尺,走及奔鹿,強力兼人。晚乃敦恱經史,尤明易經,隨師受業,還家教授, 恒數百人。初為郡門下掾,轉主簿。刺史王沈集諸參佐,盛論距吳之策,以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢,沈善其對。又使彬難言吳未可伐者,而辭理皆屈。還遷功曹,舉孝廉,州辟主簿,累遷別駕。

彬忠肅公亮,盡規匡救,不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事,于時僚佐皆當世英彥,見彬莫不欽恱,稱之於文帝,薦為掾屬。帝以問其參軍孔顥,顥忌其能,良久不答。陳騫在坐,斂板而稱曰:「彬之為人,勝騫甚遠。」帝笑曰:「但能如卿,固未易得,何論於勝。」因辟彬為鎧曹屬。帝問曰:「卿何以致辟?」對曰:「修業陋巷,觀古人之遺迹,言滿天下無口過,行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰:「名不虛行。」他日,謂孔顥曰:「近見唐彬,卿受蔽賢之責矣。」

初,鄧艾之誅也,文帝以艾久在隴右,素得士心,一旦夷滅,恐邊情搔動,使彬密察之。彬還,白帝曰:「鄧艾忌克詭狹,矜能負才,順從者謂為見事,直言者謂之觸迕。雖長史司馬,參佐牙門,答對失指,輒見罵辱。處身無禮,大失人心。又好施行事役,數勞衆力。隴右甚患苦之,喜聞其禍,不肯為用。今諸軍已至,足以鎮壓內外,願無以為慮。」

俄除尚書水部郎。泰始初,賜爵關內侯。出補鄴令,彬道德齊禮,朞月化成。遷弋陽太守,明設禁防,百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇,監軍位缺,朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立,立曰:「宗、彬俱不可失。然彬多財欲,而宗好酒,惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足,酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事,加廣武將軍。上征吳之策,甚合帝意。

後與王濬共伐吳,彬屯據衝要,為衆軍前驅。每設疑兵,應機制勝。陷西陵、樂鄉,多所擒獲。自巴陵、沔口以東,諸賊所聚,莫不震懼,倒戈肉袒。彬知賊寇已殄,孫晧將降,未至建鄴二百里,稱疾遲留,以示不競。果有先到者爭物,後到者爭功,于時有識莫不高彬此舉。吳平,詔曰:「廣武將軍唐彬受任方隅,東禦吳寇,南臨蠻越,撫寧疆埸,有綏禦之績。又每慷慨,志在立功。頃者征討,扶疾奉命,首啓戎行,獻俘授馘,勳效顯著。其以彬為右將軍、都督巴東諸軍事。」徵拜翊軍校尉,改封上庸縣侯,食邑六千戶,賜絹六千匹。朝有疑議,每參預焉。

北虜侵掠北平,以彬為使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右將軍。彬既至鎮,訓卒利兵,廣農重稼,震威耀武,宣喻國命,示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆、擿何等並遣侍子入貢。兼修學校,誨誘無倦,仁惠廣被。遂開拓舊境,卻地千里。復秦長城塞,自溫城洎于碣石,緜亙山谷且三千里,分軍屯守,烽堠相望。由是邊境獲安,無犬吠之警,自漢魏征 鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼,遂殺大莫廆。彬欲討之,恐列上俟報,虜必逃散,乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之,詔遣御史檻車徵彬付廷尉,以事直見釋。百姓追慕彬功德,生為立碑作頌。

彬初受學於東海閻德,門徒甚多,獨目彬有廊廟才。及彬官成,而德已卒,乃為之立碑。

元康初,拜使持節、前將軍、領西戎校尉、雍州刺史。下教曰:「此州名都,士人林藪。處士皇甫申叔、嚴舒龍、姜茂時、梁子遠等,並志節清妙,履行高潔。踐境望風,虛心饑渴,思加延致,待以不臣之典。幅巾相見,論道而已,豈以吏職,屈染高規。郡國備禮發遣,以副於邑之望。」於是四人皆到,彬敬而待之。元康四年卒官,時年六十,諡曰襄,賜絹二百匹, 錢二十萬。長子嗣,官至廣陵太守。少子岐,征虜司馬。

まず書き下し文。例の如く、怪しいところもあるので注意して下さい。

 唐彬字は儒宗、魯国鄒の人なり。父の唐台、太山太守たり。唐彬は経国大度有るも、而して行検拘らず*1。少くして弓馬を便とし、游猟を好み、身長八尺、走れば奔鹿に及び*2、力の強きこと人を兼ぬ。晩なれば乃ち経史を敦く悦び、尤も『易経』に明かたりて、師に随いて業を受け、家に還りて教授すること恒に数百人*3。初め郡の門下掾と為り、転じて主簿たり。刺史王沈は諸参佐を集め、盛んに距呉の策を論じ、以て九郡の吏に問う。唐彬と譙郡主簿の張惲は倶に呉兼ねる可きの勢い有るを陳し、王沈は其の対を善しとす*4。又唐彬に呉未だ伐つ可からずを難言せしむるは、而して辞理皆屈す*5。還って功曹に遷り、孝廉に挙げられ、州は(唐彬を)主簿に辟し、累遷して別駕に遷る。
 唐彬は忠粛公亮、尽規匡救、諫を顕さず以て自ら彰かにす。又奉使相府の計事に詣で、時に僚佐皆当世の英彦なるも、唐彬を見るに欽み悦ばざるは莫し*6。之を文帝*7に称するや、帝は其の参軍孔顥に問うを以てす。孔顥其の能を忌みて久しく答えざるを良しとす*8。陳騫坐に在りて、板に斂して而して称して曰く、「唐彬の為人、陳騫に勝りて甚だ遠し。」帝笑いて曰く、「但能く卿の如きは固より未だ得易からざるに、何ぞ勝を論じるや。」因りて唐彬を辟して鎧曹属と為る。帝問うて曰く、「卿何を以て辟に致すか?」対して曰く、「陋巷に修行し、古人の遺迹を観、言は天下に満つるも口過無く、行は天下に満つるも怨悪無し。」帝は四坐を顧みて曰く、「名は虚行たらず。」他日、孔顥に謂いて曰く、「近くで唐彬を見るに、卿は蔽賢の責を受くべし。*9
 初め、鄧艾の誅するや、文帝鄧艾が久しく隴右に在るを以て、素より士の心を得る。一旦夷滅し*10、辺情騒動を恐れ、唐彬を使して密かに之を察せしむ。唐彬還り、帝に白して曰く、「鄧艾は詭狭に克つを忌み、能を矜り才を負い、順従なる者は見事と為し、直言なる者は之迕に触れると謂う*11。」長史司馬、参佐牙門と雖も、答対が指を失せば、輒ち罵辱せらる*12。身を処するに礼無く、大いに人心を失す。又行事役を施すのを好み*13、数しば衆の力を労す。隴右甚だ之を患苦し、其の禍を聞きて喜び、用を為すを肯じえず。今諸軍已に至らば、以て内外を鎮圧するに足り、願わくば以て慮を為す無かれ*14。」
 俄に尚書水部郎に除せらる*15。泰始の初め、関内侯を賜爵せらる。出でて鄴県令を補し、唐彬は徳を道き礼を斉え、期月にて化成す。弋陽太守に遷り、禁防を設けるに明るく、百姓之に安んず。母の喪を以て官を去る。益州は東を呉寇に接するも、監軍の位を欠き、朝議して武陵太守楊宗及び唐彬を用いんとす。武帝*16は以て散騎常侍の文立に問い、文立曰く、「楊宗、唐彬倶に失す可からず。然るに唐彬は財欲多く、而して楊宗は酒を好み、惟陛下之を裁せよ。」帝曰く、「財欲は足るべきも、酒は改め難し。」遂に唐彬を用う*17。尋ね又詔して唐彬を監巴東諸軍事とし、広武将軍を加う*18。征呉の策を上し、甚だ帝の意と合す。
 後に王濬と共に呉を伐し、唐彬は衝要に屯拠し、衆軍の前駆と為る。毎に疑兵を設け、機に応じて勝を制す、西陵、楽郷を陥とし、多く擒獲する所とす。巴陵、沔口以東より、諸賊集まる所、震懼せざる莫く、戈を倒して肉袒す*19。唐彬は賊寇已に殄するを知り、孫皓将に降らんとするに、未だ建業二百里至らず、疾と称して遅留し、競わざるを示すを以てす*20。果たして先に到る者有らば物を争い、後に到る者は功を争い、時に有識は唐彬の此の挙を高せざる莫し。呉平らぎ、詔して曰く、「広武将軍唐彬は方隅の任を受け、呉寇を東御し、南は蛮越に臨み、疆埸*21を撫寧し、綏御の績有り。又毎に慷慨し、志は功を立つるに在り。頃は征討、疾くと奉命を扶け、首め*22に戎行を啓き、俘を献じ馘を授け*23、勲効顕著たり。其れ唐彬を以て右将軍、都督巴東諸軍事と為す。」徴せられて翊軍校尉を拝し、上庸県侯に改封せられ、食邑六千戸、絹六千匹を賜せらる。朝に疑議有らば、毎に参与す*24
 北虜北平を侵掠し、唐彬を以て使持節、監幽州諸軍事、領護烏丸校尉、右将軍と為す。唐彬既に鎮に至り、卒を訓して兵を利し、農を広くし稼を重ね、威震いて武耀き、国命を宣喩し、恩信を以て示す。是に於いて鮮卑二部大莫廆、擿何等並びに侍子を遣わせ入貢せしむ。学校を兼修し、誨誘倦むこと無く、仁恵は広く被る。遂に旧境を開拓し、地を却くこと千里。復た秦の長城を塞ぎ、温城より碣石に洎び*25、山谷は且に三千里に綿亙*26せんとし、軍を分けて屯守し、烽堠して相望む。是に由り辺境は安を獲、犬吠の警無く、漢魏より征鎮之比する莫し。鮮卑諸種畏懼し、遂に大莫廆を殺す。唐彬之を討たんと欲するも、上に列ね報を俟てば虜は必ずや逃散するを恐れ*27、乃ち幽冀の牛馬を発す*28。参軍の許祗は密かに之を奏し*29、詔して御史を遣わし檻車に唐彬を徴して廷尉に付すも、事を以て直して釈せらる*30。百姓は唐彬の功徳を追慕し、生きて碑を立て頌を作るを為す*31
 唐彬は初め学を東海の閻徳に受け、門徒甚だ多くも、唐彬は廊廟の才*32有りと独り目せらる。唐彬官成ずるに及ぶも、而して閻徳已に卒し*33、乃ち為に之の碑を立つる。
 元康初め、使持節、前将軍、領西戎校尉、雍州刺史を拝す。教を下して曰く、「此の州名は、士人林藪*34。処士の皇甫申叔、厳舒龍、姜茂時、梁子遠達、並びに志節清妙にして、履行高潔。境を践みて風を望み、虚心にして饑渇し、加を思い致を延べ*35、以て不臣の典を待つ*36。幅巾相見え、道を論ずるのみにして、豈に吏職を以てし、染を屈して規を高くせんとするか。郡国礼を備えて遣いを発し、以て邑の望に副う。」是に於いて四人皆到り、唐彬を敬い而して之を待す。元康四年卒官し、時に年六十、諡曰く襄、絹二百匹、銭二十万を賜う。長子の唐嗣、官は広陵太守に至る。少子の唐岐、征虜司馬たり。


部分部分でわからないところがあったが、特に晩年で教を下した辺りはわからなかった。アレはきっとどこかの四書五経あたりが出典のはず。わかる人にはわかるのでしょう。雍州のあの4名って所謂竹林の七賢の亜流だったりするんでしょうか。そういった人たちが慕って駆けつけるくらいに唐彬は凄いんだぞ、と。

*1:才能があって度量も広いけど、品行方正というわけではない。後述するように蓄財の趣味がある。

*2:逃げる鹿に追いつける走力!

*3:師匠に経学を習い、学習後に帰宅したら自分の門下生が数百人いて教えてました、と。唐彬の師匠は列伝の最後に出てくるが東海郡の閻德という人物。

*4:主戦論、ということでしょうね。

*5:呉の討伐は時期尚早という意見を難じた言動を唐彬がしたら、討伐反対派は唐彬の意見に従ったということ。

*6:奉使が相府の計事に詣でたとき、その時の唐彬の同僚はみんな当代の立派な人物であったが、それでも唐彬を見たら恭しく思われた…要は同期の中でも別格だったと云うことでしょう。

*7:『晋書』なので司馬昭のことです。

*8:孔顥は恐らく、唐彬が品行方正でないところを評価していなかったのかも。それとも妬みの類か。

*9:司馬昭がとても唐彬を気に入った為、孔顥が唐彬について何も答えなかったのを咎められた、ということである。

*10:夷=蜀漢

*11:鄧艾は才能を自負していて、自分の意見に従う人が評価され、直言する人物は反抗的と見なされるということ。正確な表現かどうかわからないが、唐彬の鄧艾評は「自分の才能を強く信じているため、その手足になる人物(イエスマン)を評価し欲しがっている」と。

*12:長史だろうが司馬だろうが参佐だろうが牙門将だろうが、鄧艾の要求に対する答えが的を得ていなかったら、罵倒されて人前で辱められるのだろう。社内である程度の地位のある人が、他の社員の前で重役から罵倒されているようなものである。

*13:たぶん、公共工事的な何か。

*14:鄧艾は人の恨みを買って隴右の人から支持されていないから、鄧艾が誅殺されたからといって司馬昭が心配するようなことは何もないですよ、という結論。唐彬、随分とぼろくそに論じたものである。

*15:何だ?治水又は水軍担当の尚書郎か?

*16:司馬炎のこと。

*17:財欲は満たされることがあるかも知れないが、酒好きは治らないので同程度の能力なら唐彬を使おう、という判断。酒による失敗のリスクを取るより、物欲に伴うリスクを司馬炎は取った。文立はその辺の判断がし辛く、後の責任回避のために司馬炎へ判断を押しつけたのだろう。すごくサラリーマン的だ、文立(笑)

*18:この文脈から判断すると、監○○諸軍事は都督職(都督○○諸軍事)の品官的な意味での下位互換と言うよりは、監軍の役割が色濃く残った職務だと言えるかも知れない。他の事例も確認したい。

*19:呉の軍勢が戦意喪失して悉く唐彬に降伏したことを指す。

*20:已に敵も戦意無く勝利も時間の問題なので、建業一番乗り競争に加わらず其の手前で留まったらしい。

*21:国境のこと。元々は田畑のあぜ道。

*22:始め、の意味。

*23:「馘」とは戦功を報告するために切り落とす敵兵の左耳、転じて首のこと。首級。

*24:これは翊軍校尉の職務なのだろう。都督職の仕事じゃないし。

*25:及び、の意味。

*26:長く続く、の意味。

*27:即時に軍事行動へ移りたいが、その意見を中央に伺って結果報告を待つという時間の浪費はしたくない、という考えだと思われる。

*28:冀州の牛馬を徴発できたのは護烏丸校尉の権限?少なくとも監幽州諸軍事ではないだろうな。

*29:所謂「コンプライアンス違反です!ちゃんとルール守りましょう!」という事で密かに上奏したのかも知れない。

*30:一時更迭されたけど事情を説明したら許された、という事だと思う。

*31:碑を立てたいあまりに自作してしまった某左伝癖の人だって居るのに...羨ましい限りです。

*32:廊廟=廟堂。表舞台で政治を取り仕切る才能がある、という意味。

*33:期待通りに唐彬が大成した時には既に師匠は亡くなっていた、と。

*34:人材が沢山居るから雍州という名前にしました、ということだろう。

*35:思加延致って何かの熟語だろうか。よくわからん。

*36:これもどういう意味かよくわからない。どこか経典の定型文だろう。