後漢時代のお給料
『後漢書』百官志には後漢成立間もない建武二十六年の官僚の給料が掲載されている。給料のことを「奉」と称し、基本的には斛単位で表現される。実際は半銭半穀だったと記されており、穀物だけで支給されたわけではないようだ。尚、後漢時代は一斛=19.8L(参考)。
官位 | 米/月 | 容量換算 | 代表官職 |
---|---|---|---|
大将軍・三公 | 三百五十斛 | 6,930L | 大将軍、三公 |
中二千石 | 百八十斛 | 3,564L | 九卿 |
二千石 | 百二十斛 | 2,376L | 太守、大長秋 |
比二千石 | 百斛 | 1,980L | 中郎将、校尉 |
千石 | 八十斛 | 1,586L | 御史中丞、県令 |
六百石 | 七十斛 | 1,386L | 州刺史、尚書令 |
比六百石 | 五十斛 | 990L | 中郎 |
四百石 | 四十五斛 | 891L | 県長(大) |
比四百石 | 四十斛 | 792L | 侍郎 |
三百石 | 四十斛 | 792L | 県長(小) |
比三百石 | 三十七斛 | 732.6L | 郎中 |
二百石 | 三十斛 | 594L | 太子舎人 |
比二百石 | 二十七斛 | 534.6L | |
百石 | 十六斛 | 316.8L | 郷三老 |
斗食 | 十一斛 | 217.8L | |
佐史 | 八斛 | 158.4L |
これが延平年間(殤帝期)になると、以下のように変化する。出典は荀綽『晋百官表注』。表現は銭+斛数で表現されていたので、それに倣っている。記載のないところは「―」と表記した。
官位 | 米/月 | 容量換算 | 銭/月 |
---|---|---|---|
大将軍・三公 | ― | ― | ― |
中二千石 | 七十二斛 | 1,425.6L | 九千銭 |
真二千石 | 三十六斛 | 712.8L | 六千五百銭 |
比二千石 | 三十四斛 | 673.2L | 五千銭 |
一千石 | 三十斛 | 594L | 四千銭 |
六百石 | 二十一斛 | 415.8L | 三千五百銭 |
比六百石 | ― | ― | ― |
四百石 | 十五斛 | 297L | 二千五百銭 |
比四百石 | ― | ― | ― |
三百石 | 十二斛 | 237.6L | 二千銭 |
比三百石 | ― | ― | ― |
二百石 | 九斛 | 178.2L | 千銭 |
比二百石 | ― | ― | ― |
百石 | 四斛八斗 | 95.04L | 八百銭 |
斗食 | ― | ― | ― |
佐史 | ― | ― | ― |
さて、問題はこの延平年間は建武年間と比較してどれくらい違うのかと言うことである。山田勝芳氏の論考では一斛=百銭程度と仮定しているのでこれを踏襲すると、延平年間は穀物換算で若干給与は目減りしているのかな、程度だと考えられる。当然、山田氏の論考にあるとおり収穫状況によってある程度の価格の揺れは起きうるし、ネット上でもJominian氏が言及する通りである。が、今はそこまで追求するつもりがないことをご了承願いたい。
これがどれくらいの感覚なのかよくわからないので今のお米価格で換算をしてみよう。学問的には意味がないけど感覚的な意味で、である。社団法人 米穀安定供給確保支援機構が公表している平成23年11月時点の全国平均価格は玄米1俵(約72L)で15,178円である。これを後漢時代の一斛で換算すると、凡そ4,172円である。太守クラスの人は毎月百二十斛の穀物を給与として得ていたのだから、単純計算すると月給50万円、年収に直すと600万円である。年収ラボの統計を参考にすると、東京都の住民の平均収入レベルらしい。
いや、ちょっとまて。それだと小規模な県に赴任した県長は月給約16.7万円(年収200万円)となり、高校新卒クラスの給与(岐阜県)になってしまうではないか。もっとも、こういった役職に就ける人物は豪族であることが多いので、荘園からの収入も充分あるはずである。これだけで家計をやりくりしているわけではない。よって高校新卒レベルの給与だったとしても問題ない…のかも知れない。
段々とやっていて収拾が付かなくなってしまったが、後漢時代の太守クラス=東京都の住民の平均年収ということで今回の結論としたい。随分と変な結論になってしまったが。